取捨選択とそもそも選択肢がないこと
私の通勤経路にはそこそこ立派な公園がある。都心に近く整備されたマンション密接地域なので公園にもきちんと予算がかけられている。そこにいる住人達もいつぞや学校で見た道徳の教科書のようだ。
筋トレをする老人、犬の散歩をする妙齢の女性、元気に遊ぶ子供たち。
私は朝夕とその公園の真ん中を突っ切って会社へ向かうんだけど、今日の帰りはあまり見かけない人達がいた。
サッカーをする子供達とそれを見守る保護者。でもその子供たちは英語を話していた。確かその公園から徒歩圏内にインターナショナルスクールがあるから、そこの生徒達なんだと思う。
……などと考えていたら、足にボールが当たった。
振り返ると軽く謝る母親と、その少し遠くでボールを待つ10歳くらいの少年。
パンプスでボールを蹴るのもはばかられて(嘘、本当はまっすぐボールを蹴られる自信が無かった)、ボールを手で持ってそちらへ投げた。
当たり前のように穏やかな夕暮れ。なんて羨ましいんだろう。
ここにいる登場人物に幼少期の頃の私は欠片もなり得なかった。
ド田舎の母子家庭に生まれて、整備された公園も無く、そもそも祖母の過度な束縛と過保護故に終業後に友達と遊ぶなんてできなかった頃。母親の生き直しをするかの如く習い事を週の半分以上していた頃。その頃と同じくらいの年齢の子供が、インターナショナルスクールに通って都心の公園で、級友とサッカーをしている。
世の中の不条理さに想いを馳せて止まない。
わたしだって都会に生まれたかったし、インターナショナルスクールに通いたかった、通えるような家庭に生まれたかったよ~~~~~
そんなこと言ったって自分の手持ちの駒でやってかなきゃいけないのは重々承知だし、その中でできる限りのパフォーマンスをしてきたつもりだ。だから私は今都心近くの会社で働いてるし、そういう光景を見かけるような場所にいて、その空間の登場人物足りえている。
幼少期の私にはそもそも選択肢がなかったけれど、今の私はいくつかの選択肢を持てている。存在できている。
だけどそれを褒めてくれる人、あんまりいなくて悲しい。
そもそも他人から褒められることを価値基準とするのをやめやれればいいんだけど、そんな直ぐには出来ないなぁ。
何かを選ぶことは別の何かを選ばなかったことだ、とよく言うけれど本当にその通りだと思う。
中学を卒業して早々に地元から離れることを選んだ私と地元の高校に進学した私
オタクとしてイベント通いつつグッズ集めて池袋通った私と大学の量産型サークルに入って学内の知り合いを増やした私
比べだしたらきりがないけれど、その境目はどこにあるんだろう
私は1年を4月~と9月~の二期制で捉えているのでこの10月から後期が始まった。
(自分の中で、だけど)期が新しくなったし、まだやったことのなかったこととかやってみたい。2017年後期私は何を選び何を選ばないのか、取捨選択をする季節に差し掛かっている。
再来週は会社の有給消化でまとまった休みを取るので人生初USJに行ってくる。
今まで頑なにTDR党を貫き、行くことを選んでこなかったUSJを、今回は選んでみたのである。そうやって少しずつ選んでいけば死ぬまでにはけっこう色々制覇できそうだよね。
USJのオススメとかあったらおしえてください。
今日はここまで。